さみだれは夏の季語となります

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俳句も長く思い考え続けると、

簡単であるようで簡単でなく、単純でありながら奥深いことが時間と共に沸々と湧き上がる。

俳句の場合、メインは『季語』ですけどもその季語にも様々な言い回しや語彙というのですか、例えば将棋達人者の場合のように一手決断するのに頭の中では「億手」あるといわれるほどの高度な技が読み取れるようです。(もっとも私はそのような億手はおろか、一文字もままならず四苦八苦してますが^^)

時間と経験と感性をどのように生活に取り入れているかによって表現の豊富が生まれ内容も深まる。最も生まれつき『天性』が備わっている場合は別の話になる。

夏の季語は暦通りの詠みのため、五月(今年は五月五日)の立夏からなので、そのような流れになる。従いまして五月雨(さみだれ)梅雨(つゆ、ばいう)は夏の季語となります。

山々の雨上がりや小雨時期の山々を見下ろすとつくづく、修験者のような気持になる。『市川覚峯』氏の「修行千二百日 真の自己を求めて」を手元に目を配る。玉置の宮の故宮司の「幽玄深奥(げんゆうしんおう)」という言葉がよみがえる。明治元年の「神仏分離令」が出され廃仏毀釈により少し信仰心も薄らいでいたり、古来よりは様変わりしている昨今ですが、神と仏は表裏一体と呼ばせていただこう。伊勢神宮と朝熊山の金剛證寺のように現在でも精神性は息づいている。

詠み

さみだれもはぶたえぎこちにみえごとし

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